2023年12月8日金曜日

深夜の中庭

  早寝早起きの生活を送るようになってから、もう随分たつ。

 早いときには夜七時に寝てしまうし、どんなに頑張っても、夜九時頃には眠くて身体を起こしていられなくなる。

 何時に寝ても、朝はきっちり五時に起きる身体になってしまった。

 加齢によるものだろう、としか言いようがない。気づいたら、そうなっていた。


 この生活リズムに特別の不満はない。が、時々ふと、郷愁のような想いにとらわれる。


 かつて、私は自分でも呆れ返るほどの、夜行性の人間だった。

 起床は早くても午後六時で、ひどい時は、午後八時を過ぎることもあった。

 目覚めたときはしっとりと冷えはじめた夜の暗闇のなか。それが当たり前だった。


 起床からしばらくして、日付が変わるころになると、全ての音がさらに遠く、低く聴こえるようになる。

 これは、夜行性の人間にしかわからない、深夜の変化だ。

 街からほぼ音が消え、私の部屋も、私の思う人々が眠る遠い家々も、少しだけ深みに沈んでいく。

 ひとり足先を冷やして座り、黙ってそれを感じていると、意味もわからず泣きたい気持ちが襲ってくる。

 そうなると、私は毎晩のように、寝静まった外の町へとひとりさまよい出すのだった。


 深夜に目覚めている人間たちが集まる場所、すなわち深夜営業の居酒屋やスナックに、私はめったに行くことがなかった。

 ひんぱんに通えるほどの金がなかったからだ。

 いまのようにコンビニもなく、外はどこまでも暗かった。その暗い街を、私はただ歩く。自販機の光だけを頼りに、たまに通る車を避けながら、側道の溝板を踏んで、ひたすらに歩いた。

 どこにも立ち寄る場所はない。入っていける建物はない。深夜の孤独は体幹にひっそりと刺さった極細の金属針のようで、心が動くたびに、深いところがキュッキュッと痛むのだった。

 その痛みが、私を活かしている。だから、私は夜を歩くのだ。

 その頃、私は、そう思っていた。


 そして、私は、ある「中庭」を見つけたのだ。


 それは人通り少ない住宅街に建つ古めかしい屋敷風の家で、高い板塀に囲まれていた。昼間に通りかかると門は完璧に閉じられており、中を伺うことすらできない。

 が、深夜になるとなぜか、正門の少し脇にある通用門が開いており、門の上の常夜灯がふたつ、こちらを誘うように輝いているのだった。

 門の前には地面置きの看板が出ており、流暢な手書きで「深夜だけ開けております。中庭へどうぞ」と書かれていた。


 通用門をくぐり邸内に入ると、木造二階建ての家屋はきっちり戸締まりされ、室内には灯りひとつ見えない。

 なのに、玉砂利の細い路を抜けたところの中庭には、街灯のような背の高い灯りが置かれ、黄土色の優しい光が芝生に降り注いでいる。

 芝生の中央には、田舎のバスの休憩所を思わせる、簡素な作りの古びた東屋があり、長方形の卓のまわりに、やはり木製のベンチが置かれていた。

 卓上には電気カンテラがひとつ、ぽつんと置いてある。

 カンテラの横に、大声をけして出さないこと、灯りは持ち込まないこと、午前三時には立ち去ること、ゴミは必ず持ち帰ること、といった注意書きのメモがあった。


 そこには毎晩、数人の深夜族たちが、ひそやかに集まっていた。

 東屋の下は相手の顔もよく見えない暗がりで、そこで私たちは小声で囁くように語り合いながら、思い思いのものを飲み、思い思いのものを食べた。

 老人から十代だろう少女まで、いろいろな人々がいた。いろいろな声、いろいろな匂いがあったが、彼らの名前も素性も知らないままだった。

 そこは私の、夜の茶の間だった。

 ポットに入れたコーヒーを、とめどなく飲みながら、私は考え、つぶやき、聞き、たまに笑っていた。

 夜起きる者の孤独が、そこで癒やされていたのか。それはよくわからない。私は顔の見えない人々の横で、やはり独りだった気もする。

 が、深夜の中庭の時間は、やはり私には楽しかったのだ。


 そこで彼女と出会った。


 彼女の顔もやはりよく見えなかったが、印象的なのは長い後ろ髪を編んで止めてある、真珠色のバレッタだった。どんな素材なのか、暗闇のなかでも、その真珠色はキラキラと光った。

 声も話し方も快活で小気味よく、声を抑えながらの笑い声には、踊りだしたくなるような活き活きとした魅惑があった。


 彼女は、自分のことをほとんど語らなかった。悩んでいる様子も全く見せなかった。

 深夜の空気の素晴らしさ、夜中の自販機で飲むジュースの美味しさ、おすすめの夜歩き住宅街。二十四時間営業レストランのコスパメニュー。

 彼女の話はみな、夜を歩き、夜を楽しむ喜びに溢れていた。

 酒豪の彼女は出会うたび、さまざまな蒸留酒を持ち込みぐいぐいと飲んでいて、ややもつれた舌で、とめどなく話し続けるのだった。


(あたしは、夜にしか生きられない。生きてる感じがしないの。だから、めいっぱい楽しむの。)


 そう耳元で囁く彼女の声を、陶然と聴きながら、一時の幸福に満ちてコーヒーを飲んでいた記憶。

 彼女に酒を飲まされ、泥酔して庭の芝生にひっくり返っていた記憶。


 ある雨の夜、私と彼女は、東屋で二人きりだった。ベンチに並んで腰かけて、いつものように雑談していた。

 ひそひそと話し込むうち(なんの話かはもう憶えていない)、顔が自然に近づき、頬と頬が、ごくわずかに触れた。

 あ、ごめん、と思わず言うと、彼女はくすくすと笑い、こう言った。


(ね、結婚しよか。)


 こうして、私は彼女とひそかに結婚し、ともに暮らすようになったのだった。


 ……と、ここまで書いて、私は愕然とする。


 そうだ。そうだ。私には妻がいる。夜にしか起きていない妻が。

 しかし、早寝を習慣にしてしまった私は、もう思い出せないほど長いあいだ、彼女に会っていないのだ。


 いつから私たちは会わなくなったのか。なぜ、その存在すら、これを書くまで忘れていたのか。

 私は部屋を飛び出す。そして、自分のさして広くもない家の中を駆け、妻の自室の前に立ち、激しい動悸とともにドアを開ける。


 部屋は、完全な空き部屋だった。

 カレンダーひとつ、ゴミ箱ひとつ残っていない。


 妻は、もういない。

 それとも、あるいは、最初からいなかったのだ。


 諦めきれない私は、必死に家中を探す。そして、発見する。

 彼女の象徴ともいえる、真珠色のバレッタを。

 それは、トイレの小窓のカーテンを、止めるために使われていた。


 いま、私は強く決意している。

 今夜、あの不思議な深夜の中庭に行く。そこには妻がいるだろう。なぜか、私にはそう確信できる。

 会えたなら、このバレッタを渡し、激しく泣きながら謝るのだ。なんに謝るのか、そんなことはどうでもいい。

 私の忘却、私の変節、私の不誠実、私の習慣、私の健康もしくは不健康、私の生存、私の全てについて、私は土下座するのだ。

 そうしなければ、私は、どこにも落ち着くことができず、生きていることすら怪しくなってしまうだろう。


 いまは、夜八時半を回ったところだ。

 これを書きながら、私はミントガムを噛み、必死に眠気をこらえている。


 深夜十二時は果てしなく遠く、私は引き伸ばされたような時間のなかで、妻の顔を必死に思い出そうとしている。

 そして、そもそも私は妻の顔を、光の中で見たことがないのではないかと、疑いはじめている。


 私は、今夜、ふたたび妻に会えるのだろうか。考えるほどに、それは絶望的に思えてくるのだ。

2023年1月13日金曜日

アキ


 親戚づきあいで熱海に遊びに来て、女性陣が買い物に興じているあいだ、私ひとりが温泉街のベンチで荷物番をしていた。

 預かった荷物の山を退屈まぎれに覗いているうち、姪が持ってきたのだろう季刊の少女漫画誌を見つけた。パラパラとめくってみると、一部だけ紙質がやけにいいページがある。

 表紙をあらためて見てみれば「ちばてつや」の名があり私は目を見張る。

 ちばてつやはあまりにも著名な、戦後漫画を支えた巨匠である。主戦場は少年漫画だが、デビューしたての頃に少女漫画を書いていた時期がある。ちばの世代の漫画家の多くがそうであった。

 その彼が老齢ながら何十年かぶりに少女漫画を描こうとする挑戦心に私は驚き感心し、本腰を入れてその漫画を読んでみようと決める。


 漫画のタイトルは「アキ」。


 アキは十五歳ぐらいに見える。活発な雰囲気の、短めのポニーテール(ちば漫画の少女ヒロインの定番の髪型である)の少女である。

 視点は徹底した一人称で、主人公の姿は描かれず、何者なのかも語られない。漫画の中には、アキと風景のグラフィックしかない。

 主人公とアキは、泊りがけで海水浴に来ている。アキはつねに、主人公の前にいる。歩くときは少し先を歩く。そしてひんぱんに振り向いて、こちらを見ている。

 旅館で、お好み焼き屋で、防波堤の前で、浜辺で。こちらを向いているとき、アキは1コマとして同じ表情をしない。多くは笑っているが、笑いかたが無限にあるかのようだ。

 大口開けて。うっすら微かに。少し眠いのをごまかすように。悪戯っぽくこちらをうかがって。少しだけ不機嫌なのを隠すように。ちょっとだけ媚びるように。こらえきれず天井を向いて。

 アキは笑う。ずっと、主人公の前で笑っている。

 笑顔のコマに時おり、アキの後ろ姿がまじる。細いポニーテールが揺れる。肩もむき出しの腕も細く、背も小さくて後頭部をやや見下ろす形になる。

 ひんぱんに細い首筋がはっきり見える。こちらを見ていないとき、アキは少しうつむきがちだから。


 ちばが普段描いている漫画とはまるで違う、ページ2コマぐらいの大きなコマ割り。そこに、アキが丹念に描かれる。

 古典的といえるめりはりのきいた太線に、ちばの漫画ではあまり見たことのない細い線で描き加えられた細部。アキが重ね着しているシャツの柄。首から掛けたチェーンネックレス。耳たぶ。おくれ毛。掻き上げてもすぐ落ちてくるサイドの細い髪。

 なにも起きない。アキと一緒に小さな海辺の観光地を回り、ジュースを買い、アイスを食べ、おみやげを買う。

 とりとめのないアキの言葉だけが飛び交う。「ね」「あれ!」「なんだろ?」「うそ!」「ばかみたい!」。しばしば、意味も曖昧な言葉たち。

 笑顔と声の断片と、細いうなじ。あるのはただそれだけ。

 「アキ」とは、そういう漫画だった。


 そして2日めの昼、アキと主人公はようやく海に入る。

 縦に二分割されたページの右側のコマ。

 晴れ渡った空のもと、アキは斜め犬かきのような、不思議な姿勢で泳いでいる。そして、満面の笑顔でこちらに振り向いている。

 その横のコマには、絵が描かれていない。縦長のコマの下のほうに、この作品のなかではじめて、主人公の独白が言葉にされている。


<どうして、そんな泳ぎかたになるんだ……>


 そんな、なにげない言葉が書かれている。

 

 ページをめくると、1ページまるごと使った大ゴマが現れる。

 青空と海がある。

 それだけだ。海面に細かく波が立っている。それだけだ。


 アキは、どこにもいない。


 そこで紙質が変わり、左側のページは懸賞のお知らせになっている。

 え、と私はつぶやく。後ろのページをバラバラとめくる。

 だが、「アキ」の続きはどこにもない。

 

 私は最終ページを見返す。その前の、アキの奇妙な泳ぎ姿と、笑顔を見つめる。

 そして、じわじわと実感する。

 続きも、後編もない。「アキ」は、これで終わりなのだ。

 アキという少女はこうして消えるのだ。

 消えた、という明らかな表現すらなく。この世界から、笑顔のまま消えるのだ。


 私は、しばらく焦点の合わない眼で、夕暮れの温泉街を見る。

 それから携帯電話を取り出す。

 「アキ」。この漫画は、絶対にSNSで話題になっているはず。私と同じ、胸に溢れるやりきれないものを、感じた人たちがいるはず。

 SNSアプリを立ち上げるために指を伸ばし、アイコンに触る。


 だが、どうしたわけか、アプリは立ち上がらない。

 理由がわからず、手元を見直す。すると、伸ばしたはずの指はどこにも見えない。

 逆の手に持っているはずのスマホを見ようとしても、なにも見えない。

 そんな馬鹿な、と考えて、途方に暮れて。そして、ふと真実に突き当たる。

 私の両手が見えないのは、当たり前のことだ。

 だって、私の両手は、布団の闇の中にあるのだから。

 

 私の頭は、思考は、冷たい深夜の匂いのなかに、柔らかい枕と自分の呼気のなかに、ストンと落ちてくる。


 私は熱海に行っていない。

 私には、旅行に行くような親戚などいない。

 少女漫画雑誌を持ってくるような姪もいない。


 だから、ちばてつやが描いた「アキ」という漫画は、存在しない。


 私は闇の中で横たわりながら、ふと泣きたくなる。

 存在しないもの。

   私が、いかなる意味でも、得てすらいないもの。

 なのに、それを失うことはある。いま、寝床でうずくまる私のように。

 

 数日経って。

 アキは、まだ私の中にかすかに残っている。

 だがもういまの私は、彼女の顔がほとんど思い出せない。

 私が夢の中でなにかを失ったという記憶そのものが、もうすぐ消えるのだろう。

2013年5月6日月曜日

魔術師の夜

「お客様の中にお医者さんはいらっしゃいませんか?」と魔術師が声を張り上げ、ふむふむと居並ぶ私たちを眺め渡したあと「はい、ではそちらの青いスーツの男のかた」と細くて長い指で手招きすると、水色のスーツに赤いネクタイの背広の中年男が照れながら舞台にあがり、トランプを引いたり風船を持たされたり、あざやかなマジックにひゃー! と大仰に驚いたりするのを眺めながら、さほど羨ましい気持ちもなく、むしろ医者でなくてよかったと思いつつ、私は酸っぱいワインをすすっていた。
「では助手をしてくださった褒美に、貴方を鳩に変えて差し上げましょう! 空を飛べますよ。」と魔術師が笑いかけるのに、スーツの男は意外に舞台度胸があるようで「鳩になったら今よりモテるかもしれません」などとズブい冗談で答え、魔術師がかぶせてくるつやつやした大きな布を素直にかぶったが、足元まで布で隠れたと思った瞬間に、その身体は消えて布は床に落ちた。
 おお!とどよめく声のなか、布の裾から一羽の鳩がひょこひょこと現れ、その首にはご丁寧にさっきまで男が締めていたのとそっくりな赤いネクタイがぶらさがっている。魔術師がそっと手を差し伸べると、鳩はその手にとまり、手を差し上げるとぱたぱたと飛んで、舞台上の細い鉄骨の上に止まると私たちを見下ろした。

「では次です! お客様の中に、今日柏餅を食べた方はいらっしゃいますか?」と魔術師は声を張り上げ、「おや、三人もいらっしゃる!面白いですね!」とくすくす笑うと誰かを指さし、若い女性が大張り切りで舞台にあがり、踊りださんばかりの勢いで助手をつとめ始める。「わたしも今日柏餅食べてくればよかった!」と連れが小声で嘆くのをまあまあ、とおざなりになだめつつ、チーズをつまみサラミをつまみワインを舐めながら私は舞台をさしたる熱もなく漫然と見ている。やがて女性はやはり布をかぶせられて白ネコに変わり、たたっと舞台端の足場を駆け上がると、鉄骨の上に身体を横たえた。
 次に呼び出されたのは今日が誕生日の人で上品な老婆だったが、助手をつとめることもなく即座にカエルに変わり、その次は男でも女でもない人という条件でオカマが身をよじらせながら駆け上がり、魔術師にラブコールを送ったあとコウモリに変わった。その次は眼の奥が痛む人、その次は愛を信じていない人で、その条件を聞いたとたん連れは「はい! はい!」と元気よく手を挙げ、即座に指名されて小さく私に手を振りながら舞台に向かっていき、数十分後にはカラスになっていた。私はどんどん酸味を増すワインに口をつけたまま、次から次へと摩訶不思議な条件で客が呼び出されては消えるのを見続けたが、私にあてはまる条件は何ひとつなく、呑めば呑むほど酔いは醒めてゆくようだった。

 いつか魔術師も客も声を発しなくなり、拍手の音はたえて聴こえなくなっていったのだが、最後に魔術師が、黒く渦巻く影のような客を一本の葉巻に変えてみせ、無造作にくわえるとふところからライターを取り出して火をつけ、ふうっ、と煙を吐くまで、私は舞台にのぼる者が、いつのまにか人間ではない何かになっていることにすら気づかなかった。
「さ、どうぞ。」と、とうとう気だるそうに魔術師は私を招き、私は立ち上がろうとしたがすでに腰は長時間座りっぱなしの痺れと身体に溜め込んだアルコールでぐにゃぐにゃになっており、四つん這いになったままのそのそと必死に舞台にのぼり魔術師を見上げたが、魔術師の肩越しには、鉄骨の上に並んで感情のない目で見下ろしてくる、何匹も何匹もの生き物たちの姿が見えた。
 私は何者でもないのですか、と言いかけたがその言葉すら舌先でもつれ、思わず涙ぐむ私を魔術師は優しい目で見て、あの光沢のある布をだまって手渡した。よろよろと立ち上がってその布を魔術師にかぶせると、魔術師は一瞬にして姿を消し、布はそのまま床の上にしゃらしゃらと広がった。そのとき、(何者でもないから、魔術師になるのですよ)いう魔術師の最後の囁きがきこえ、私は心の中に光をともされた気持ちで、ああそうだ私が後を継ぐのだと思うとうれしくて踊り出しそうで、手始めに連れたちを元に戻さなきゃと上を見上げると、あれほどたくさんいた生き物たちの姿は掻き消えていて、客席を見やるとそこにはただ暗闇が広がるばかりだった。

 それから私は、魔術師として、客が来るのを待ち続けているのだが、客席の闇はいっかな変わりばえもなく、何かの気配がすることすらない。もしかしたら私は騙されたのかもしれない、私は魔術師ではないのかもしれない、と誰もいない薄緑色のライトに照らされた舞台で布を振りつつ考えると気が狂いそうになる時もある。だがもう、自分が以前は誰だったのかすら、私にはうまく思い出せないのだ。

菓子枕

 その夜、どこか遠くで鳴っている鐘の音をききながら、暗い寝室に敷かれた冷たい布団に入り横たわろうとすると、幼い娘が追いかけるように入ってきて、熱くて少し湿っぽい身体を私のお腹のあたりにおしつけ顔を見上げてきた。
 にしし、とでも言いたげな悪戯な顔をしているので、どうしたんだと尋ねてやると、何も言わずに私の上体を倒そうとする。それに逆らわずおとなしく横になると、枕の感触がいつもと違う。抵抗なく頭が布団のほうまで沈んでしまい、埋もれた耳がなにやらがさごそとくすぐったい。
 枕に何かしたんだな、何これ、と言いつつ起きあがり枕を調べると、中の綿が抜かれて、なんとポップコーンがぎっしり詰まっているではないか。
 どうやら私の枕の隣に置かれた娘の小さな枕も同様にポップコーン枕になっている様子で、食べ物で悪戯をしてはいけない、と叱ろうと娘に向き直るが、娘はわりに真剣な様子で、お菓子の枕で寝るとよい初夢が見られるの、Sちゃんが言ってたのと言いつのるので、私は何も言えなくなってしまった。

 世間に私と娘の二人きりの縁しかない私たちだから、娘がときにさびしさから、すすり泣くような夢を見ていることを私は知っていたのだ。仕方ないな、じゃあよい夢を見よう、と横たわると娘はうれしそうに私の身体に身をすりよせ、ずりずりと胸のほうまでよじのぼりながら自分の小さな枕に頭をあずけ、いつものように意味不明なひそひそ話を始めるのだった。
 それを聴きながら私は眠り初夢を見たのだが、それは幼稚園の制服に赤いお気に入りのポシェットをたすき掛けにかけた娘が、大きなポップコーン製造器の中で楽しげに回転している夢だった。プラスチックの透明な円筒の向こうで、ざらざらと音をたてるポップコーンにまじりながら大はしゃぎで自分の周囲のお菓子を食べつつ廻る娘は見たこともないほどにかわいらしく、私は愛情と誇らしさで円筒にべったりと張り付きつつ手を振っていたのだが、ある時なにかの拍子にポシェットの紐がポップコーンを回している突起に引っかかったらしく、製造器がびりびりと急激に振動しはじめるなか、娘は満面の笑顔のまま身体を横倒しにしてゆき、あっというまにポップコーンの波の中に見えなくなってしまったのだった。

 そこで目を覚ました私は幸福なのか不幸なのかわからぬ初夢にぼんやりしていたが、ふと娘の身体が自分のそばになく、何か細かい粒のようなものが自分の半身に降り積もっていることに気がついた。
 かすかな窓からの光の中、布団をめくってみると、そこにはちょうど娘の身体ぶんのポップコーンが、私に寄り添って寝る娘の形をしたまま積まれていて、触れるとさらさらと崩れ、香ばしい塩の香りだけがほの暗い寝室に立ちこめた。私はなすすべもなく呆然とポップコーンを見つめていたが、やがてとりかえしのない喪失をしてしまったのだという実感が全身を襲い、自分の顔の形が変わるほど涙があふれ出てきた。結局、泣きながら娘のなごりのポップコーンを全て食べ、枕の中まで食べ尽くす以外、出来ることとてなかったのだ。

 それ以来天涯孤独となった私は転々と職を変えながら失われた娘を哀しむ日々を送ってきたのだが、しかしいつのまにか、娘を思い出そうとしても、強烈に脳裏に蘇るのは横たわる小さな人の形をしたお菓子の山の映像だけになってしまった。娘の顔さえ定かに思い出せず、なぜかずっと残っているのは、あの時食べたポップコーンのしゅわしゅわする食感と涙まじりの塩味の記憶だけなのだ。そうなってから何年も何年も経ち、故郷からはるかに離れておそろしいほどの年月を過ごしたあとで、冷たい部屋でこの文を書きつつ、私はやっといま、自分は決定的な間違いをしていたのではないかと気づきはじめている。

 私はもしかしたら、とある大晦日にポップコーンを食べながら眠り、いるはずもない娘を初夢に見た、はじめから天涯孤独の人間なのかもしれない。

2011年9月24日土曜日

三角の家


軽自動車ばかりが並ぶ露天の中古車売り場に
憶えているかぎり人影があったためしはなく


スペシャル特価と書かれた看板が風にたわみ
道路のむかいにある家の窓ガラスをふるわせる


僕の家は三叉路に食い込むくさびの形で
天井だけが見えないほど高かった


「トタン板 プラスチック 少しの木材で構成され
地面には撒き散らされた石とガラスの破片が認められる」


人はそれを
廃屋と呼ぶこともあったかもしれない


反ってしまった薄板の扉が
とがった家の先端の両脇でいつも半開きになっていて


そこをひっきりなしに何かが通るのだったが
通るものの大半は見えないのだった


昼はおしゃべりと静かな呟きが交互に通りすぎ
夜になると無数の小さな光が扉と扉の間を流れ


母はそれを見て
この家には星が流れるのねと言った


しかし僕は知っていた
あれは夜を駆けるおびえた鼠たちの眼の光だ


ときに家の床いっぱいにキラキラする液体がひろがり
月の光が流れ出したように見える


それは溢れた下水だったのだが
母は忘却の河だと信じて見つめていた


壁によりかかりマネキン人形のような母の上で
水面で反射した光の波はゆらゆらと踊り


僕らにはお互いにかける言葉もなく
一万年は一夜のうちにすぎてゆく


だから僕の家にある夜
うすぼんやりとしか見えない少女が現れ


ひそやかな声で笑っていたとしても
なにも不思議ではなかったのだ


「幽霊は誰なの?」


幽霊なのは僕と君
毎晩 赤い眼の鼠に乗って旅に出る


ありとあらゆる街はがらんとしていて
どの中古車センターにも誰もいない


父が静かに吊り下がる三角の家の高みから
シトラスの匂いのする雨が落ちてくる時


僕らは幽霊であることにくすくすと笑い
それからのどの奥を覗き込みあうのだった


ああ 世界がいつまでも廃屋でありますように


僕たちはどこにもいなかったが
三角の家に住んでいたのだ
………

メンダヴァルトのチョコボール


メンダヴァルト社というお菓子メーカーが
ノルウェーにあるのをご存じだろうか。
小さなメーカーだけど、一風変わったチョコレートを
作ることで知られている。





直径2センチほどの、球体をしたチョコレートで、外見だけ見れば
日本でも普通に見かけるチョコボールにすぎない。
厚さ数ミリのチョコの内側は空洞で、ピーナッツもカシューナッツも
ヌガーも入っていない。


このチョコボールの何が変わっているかというと
空洞の中が、ほぼ完全な真空状態だということだ。
チョコレートという、さして堅牢でも緻密でもない素材の容器の中に
真空を造ることの困難さは、想像を絶するが
メンダヴァルト社は、25年の歳月をかけて、この難事に成功した。
その製造工程は、絶対的な企業秘密だという。





さて、それでは、チョコボールの中が真空であることで
どのようなメリットがあるのだろうか。


それが、実は、なにもない。
考えてみればすぐわかることだが、口の中でチョコを噛んだ瞬間
真空状態は失われる。
その瞬間、特に味覚に格別な刺激があるわけではない。
少なくとも僕が食べた時には、チョコに包まれた真空の存在は
ぜんぜん感じることができなかった。


つまり、メンダヴァルトのチョコボールは、
世界でもっとも中に何も入っていないチョコであると同時に
もっとも無意味な真空を内包した物体なのだ。





「無意味な真空。それこそが、このチョコレートの
何者にもかえがたい価値なのデスナ!」


と、僕の友人のメーテ君は、涙を流して言うのだ。


「中に何も入っていないということを突き詰めることで
このチョコは、一介のお菓子でありながら
我々に形而上学的な問いかけを突きつけてくるのであり!
それは、真に存在しないものとはどういうものか、という
ベケット的な問いを発しているのデスヨ!」


なにも存在しない、ごく小さなチョコの中の空間は
存在の意味を持たない、いわば二重に非在な空間なのだ
チョコボールの分際で、なんと哲学的な食物なのか!と
メーテ君は焼酎飲みつつ天を仰ぐのであった。





ただ、残念なことに
メンダヴァルト社の創立者であり
このチョコレートの発明者である、グンナー・メンダヴァルトは
まだ、この世に生まれていない。


したがって、メンダヴァルト社は
ノルウェーの電話帳には載っていない。
それを考えると、メンダヴァルト社の真空チョコを入手することは
現時点では不可能に近いかもしれない。


ごめんね、メーテ君。

飴玉


空にはポケットがあって
小鳥が折りたたまれて入っている


空にはポケットがあって
地球がころりと入っている


静まりかえった一日に
ぽかんと空を見上げていると


誰かが ポケットの上から
僕らの星をそっと押さえて


まだあるかな?と
うれしげにつぶやく気配がする


僕ら ゆっくり夢見ていよう
誰かの甘い唾液につつまれる日を